 |
 |
 |
 |
近江は、縄文時代から続いた歴史遺産の宝庫であり、由緒ある寺、武将の夢の跡、
町人宿や商人屋敷、街道筋の名物などや景勝地が多く残っている地であります。
また都と地方を結ぶ街道の数も多く、沢山の人や物資が往来した物語や、
気をつけて見れば小さな痕跡も、そこここに見つけることができます。
いまも人々に受け継がれた生活様式、商人魂などの精神文化も色濃く残しています。 |
 |

天秤棒一本で海外にも販路を築いた近江商人
 |
 |
 |
江戸時代、近江を本拠地に他国で活躍する商人を近江商人と呼びました。
その出身地は、主に湖東三郡と呼ばれる蒲生郡、神埼郡、愛知郡に集中しており、
なかでも近江八幡や日野、五個荘からは数多くの有力商人が出ています。
楽市楽座のもと、活発に商売をしていた近江商人は、廃城で町が幕府領になったのを機に、
全国へ行商の旅に出かけました。やがていち早く江戸日本橋に店を構え、
「八幡の大店」と称される大型店舗経営に成功し、特に西川甚五郎、西川庄六、
森五郎兵衛は御三家と呼ばれるほどの実力を誇りました。
近江や上方の地場産業の産物を関東へ、関東・東北の原材料品を上方へ流通させる商法は、
「三方よし」の家訓が示すように、双方の産業発展にも大きく貢献しました。
峠が険しければ険しいほど、行商に行く商人の数は少なくなると、積極的に活動した近江商人。
その商人魂は、いまも商売の基本として大切に脈々と受け継がれています。 |
 |


 |
 |
「三方よし」とは、近江商人の活動の理念を表す代表的な言葉で、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の精神として知られています。
現代社会においては、取引の際に売買当事者双方のみならずその取引自体が社会をも利する、ということがいえるでしょう。 その原典となるのが、江戸時代中期の近江商人である中村治兵衛が孫に遺した「書置」ですが、この中に 「三方よし」の文字は存在しません。
何故なら、この言葉は近江商人の活動や精神を研究している現代の研究者が考案したものであるからです。 「書置」には、「たとえ他国へ行商に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分のことに思わず、
皆人よき様にと思い」とあり、「自分のことよりもお客のことを考え、行き先(商売に回る地方)の人のことを大切にして商売をする」という
近江商人の商道徳の真髄が示されています。 |
 |